かかと乗せ部
たまに、どうでもよいくだらないことを思いつく。
くだらないとわかっているのだけれども、それを口にしてみるのが好きだったりする。
それが、タイトルの「かかと乗せ部」だ。
「さまざまなものに、あるいは、場所に "踵" を乗せることを楽しみ、それを極めようとする者たちからなる部」だ。
わかりやすくするために、 "踵" という字を用いたが、正しくは、 "踵" ではなく "かかと" とするのが「かかと乗せ部」の公式ルールだ。
「この段差はいいですねえ。地面からの高さが絶妙です。こっちの高い方に "かかと" を乗せてみてください。全身の傾き具合といい、つまさきへの体重のかかり度合いといい、これは我が部公認の "かかと乗せ場" としませんか……」とか言いながら、部員同士であれこれと、かかとを乗せることを楽しみ、極めるのだ。
部のなかには、派閥もあったりする。
部のなかの最大派閥は、"芸術派" と呼ばれている一派だ。
彼らは、かかとを乗せる際の姿にこだわる。いかに美しいポーズでかかとを乗せるかを追求する一派だ。
実は私も一時期派閥の一員だったのだが、「かかとを乗せる」という行為以上に「全身の美しさ」や、かかとを乗せるための技量の高さに偏るきらいがあり、本来の「かかとを乗せる」という純粋かつ求道的、哲学的行為の精神性を失っていっているのではないかという疑問を感じて、少し前に派閥を離れた。
やはり、かかとを乗せるという行為の宇宙的・精神的境地を目指すのが、「かかと乗せ部」のあるべき姿だと思うのだ。
また、最近では若い部員たちが "エクストリーム派" と自称する派閥も勢力を伸ばしてきていると聞く。
彼らは、命の危険すらかえりみないでかかとを乗せる。そのような場所、状況、ものを常に求め、そこに "かかと乗せ" を成功させようとするのだ。
私としては、彼らもまた人の生における「かかとを乗せる」という行為の意味深さを見失っているように思えてならない。
とはいえ、「かかと乗せの真理」に至る道は一本ではないだろう。
さまざまな人間が、さまざまな方法で「かかと乗せの真理」を求めた結果として、その果ての境地にいたるというものだろう。
簡単にいえば、「何事も経験」というやつだ。
若いうちはとくに「かかと乗せ」の経験を増やしていくのが肝要だろうと思う。
我らが、一人ひとりが目指している先にあるであろう「かかと乗せの真理」に至ることができるか否か。
「かかと乗せ部」の一員として、日々精進を重ねていくしかあるまい。
ここまで書いてきて「少年老い易く学成り難し」という言葉が突然浮かんできた。
それはたぶん、偶然ではないだろう。
"大いなる宇宙の意思" とでも呼ぶべき存在から「バカなことを考える暇があったら、もっとやることがあるでしょうが」とお叱りを受けたのかもしれない。
お母さん。
バカな息子でごめんなさい。いつまでも元気でいてね。
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