人類滅亡へのカウントダウンか?
夏目漱石が、旧満州の「満州日日新聞」に寄稿した文章が見つかったそうな。伊藤博文の暗殺にふれているだとか。この寄稿は「漱石全集」(岩波書店版)には未収録で、研究者にも知られていなかったとのこと。
見つけたのは、作家の黒川創という方。この寄稿を見つけたのは韓国でのことで、平成22年、韓国で開催されたとあるシンポジウムに参加したとき。
伊藤博文を暗殺した安重根に関する資料集に寄稿の一部が収録されているのを見つけて、国会図書館に所蔵されている満洲日日新聞のマイクロフィルムで全体を確認したのだそう。
伊藤博文が暗殺されたのは、明治42年(1909年)10月。100と数年前だ。
紙資料だったからこそ、100年後にも読み取れたといえる。あるいは、国会図書館にあるマイクロフィルムだからこそ全体を確認できたのだとも。
昨年、Kindle Paperwhite を購入して、15,16冊総計2千数百ページを気軽に持ち歩けて喜んで使っているくせに、なんだけど、電子書籍に限らず動画や写真その他さまざまなものの電子化が進んでくると、「知られていなかった文献が見つかる」というようなことがどんどん無くなってくるのか、はたまた電子化されているからこそ時の経過で腐ったり破損したりしないで見られるようになるのかと悩ましい気分になったりする。
歴史研究に携わっている人にとっては、紙が電子化されるのは見過ごせないできごとだといえるかも。
紙だからこそ、百年、千年経てもそこにあるわけだろうし、電子データだからこそ壊れずにあるともいえるし。
Wikipedia で調べてみた――世界最古の紙はいまのところ、1996年に中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものらしい。前漢時代の地図が書かれていて、紀元前150年頃のものだと推定されているとある。2000年以上前だ。
世界最古の印刷物とされているは、『百万塔陀羅尼』というもので、これが宝亀元年(770年)というから、1200年以上前だな。
電子データは千年単位の経過によく耐えうるのか? まぁ、どんな記録媒体でどういう保存状態かによるだろうけどねぇ。
昔の人の日記や手紙が今もあったりするけど、電子化されてくるとそういうこともなくなってくるわけだ。たとえば、モーツアルトが書いた手紙とかは、受け取った側が子子孫孫、先祖の遺物として残していたから時代が過ぎても見つかるわけで。
いま彼が生きていたとしてだ、数百年後にモーツアルトが送受信したメールが見つかるとか、モーツァルトが書いた Facebook だとか Twitter だとかブログだとか、Webページだとか MSWord で書いた日記だとかが残っていたって可能なんだろうか?
難しい気がするなぁ。だって携帯電話とかスマートフォンでもそうだろうけど、機種変したらショップで回収してもらって壊しちゃうしね。自分で持っている人もいるけど、数百年後もまで送受信したメールが消えずに本体内に残っているのか? だいたい捨てなかった人だって、いつまでちゃんと持っているかわからないし。
パソコンだって買い換えたら古いのをリサイクルでメーカーに回収してもらう人のほうが多いだろうし。Webサイトやブログなんて、運営している会社が存続できなくなったらそれまでだろうし。
で、未来の研究家たちが重要視するような時期の記録がどんどん世の中から消失していったりするわけだ。
遠い未来のテレビ(テレビがあるとしてだけど)では、「2013年(平成25年)の1月にモーツアルトが何を考え、どこで何をしていたのか、現代の私たちには永遠に知ることができない謎なのかもしれません」なんてことを言ってるかもしれない。
何にも残ってないから――
そうやって人が生きていた、さらには人類が存在していたという記録が消えていくのか? 数千年後なら、まだなにかしらの記録媒体が無事に残っているような気もするけど、いまから1万年後は無理なような気がするなぁ。
「およそ2,000年前の携帯電話が発掘されました」とか「出土したのは、当時の記録媒体の一種であるUSBメモリだとみられ、約1万年前のものと推定されます」とか、未来に起こるのか? 起こらない気がするなぁ。
数万年後に発掘してくれる人類もいるかどうかだ。
放射性廃棄物を地下に埋めると数万年の保管が可能らしい。専門家が可能だって言うなら可能なんだろうけどさぁ。どこにどれだけどういう状態で埋めたという記録を、数万年後までちゃんと残せるのか?
年金記録問題なんて、1997年に基礎年金番号を導入したときから起こってたわけで……たった16年前だ。16年の間に、記録がちゃんとされてなかったんだよなぁ。
1万年が経つ間に、放射性廃棄物をどこにどうやって埋めたという記録が組織的に正確に受け継がれずにあやふやになっちゃうなんてこともあり得るぞ。下手したら、放射性廃棄物を埋めたという記録そのものがどこかの時点で失われたりして。
関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したのが1600年10月で、まぁ413年前だ――と書けるのもなんだかんだで記録が在ったから、後の世でも知ることができたんだよなぁ。
記録そのものが無かったら、徳川家康という名の人がいたということも知れないわけで。
放射性廃棄物を埋めた記録が消失していたとしたら? 千年、万年後、ある場所を掘っていたらかつて埋められた放射性廃棄物がでてきたりする。で、保管していた容器が変質していたり、壊れていたりして、工事に携わった人がみな被ばくなんてことが絶対に起きらないとは言えないよなぁ。
埋めたことを忘れ去られてしまった場所が未来の飲料水に近い場所だったりすると――漏れ出した放棄物を含んだ水を周辺の人たちがみな飲んでいて……なんて恐ろしいことも。
昨年末の選挙で政権を取り戻した自民党は「原発0」にストップをかけた。放射性廃棄物が地中に埋められる時代は続くようだ。
さまざまなものが電子データ化される動きももう止まらないだろうし。
長く残す、正確に残し続ける――そういうことができなければ、いま地球上に存在している文化や文明があったということ自体が、遠い未来には消えてしまっているかもしれない。
なんて考えると、Kindle Paperwhite を楽しんでいる自分はずいぶんとお気楽な過ごし方をしているのかもしれないなぁなどと考える2013年始まりの月。
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