2012年、初ツバメを見て
昨日、本年初のツバメを目撃。
寒い日が続いたけど春は必ず来るもんだな。
うちのブログを読み返してみると、昨年は4月1日にツバメを初めて見た話を書いてあった。
震災の大きな衝撃が日本中からまだ薄れていなかったその頃、ツバメの飛来にひっかけて「生きているものは日々を続けるしかない」ことを書いた。
震災から1年ちょっと過ぎて、あの記事を書いた想いは大きく変わっていない。"大きく"と書いたのはあのときと少し違った想いが増しているから。
というのは、テレビで被災地の現状を取りあげるときに、「いい話」っぽくまとめるのが僕は気になっている。
まだまだ苦しいなかでもこんなに頑張っている……とかいった展開のものがやたらと多い。
それがダメだと言いたいんじゃない。それがテレビの中で多すぎると僕は感じている。
「いい話」っぽく見えると、テレビを見ている方としては、復興は遅いけど着々と進んでいるという印象が生まれる気がするから。そして、そういう印象が残ると、少しずつでも復興が進んでいてよかった――と感じて、被災地に向ける意識が薄れていくのではないかと感じるから。
そうした意識の薄れは、被災地への支援や震災直後にもった問題意識をも減らしていくような気がする。
テレビが取り上げるときは、「復興はほとんど進んでいない」ことにより焦点をあてるべきだと僕は思う。
なんか感涙を誘う「いい話」にまとめることに、番組を作っている人たちがより力を注いでいる気がして仕方がない。
「いい話」を見たり聞いたりすれば、「(復興が進んでいて)よかったねぇ」という想いがわいて、それが問題意識を停滞させる場合があるように僕には感じられる。そうなると、ボランティアに行ったり、義援金を送ったりといった被災地への支援が減ってくることにつながっていくというのが僕の見方。
僕自身、最近被災地のための寄付をあまりしなくなった。被災地への募金箱を置いている風景も、周囲であまり見なくなっている。
寄付なんて自分がやればいいだけの話なんで頻度が減ったのは全部テレビのせいだとは言えない。けど、テレビが「いい話」っぽく取り上げることで支援が減っていく影響はけっこう大きくあるんじゃないかと僕は感じている。
あるいは、計画停電が行われたころの節電――いまではどうだ? 僕の周りでは以前はあれほど消していた看板や広告塔が震災前と変わらないぐらいに明るく光っている。
のど元過ぎれば――というものか。
たしかにちょっと暗いかなという気もしたけど、そんなにどこもかしこも明るくしなくてもやっていけるなぁと、僕はあのころ思った。
使う電気が減らなければ提供する電気も減らすわけにいかない。提供が求められれば発電する仕組みも欠かせない。で、原発は止められませんという話にももっていきやすい。
原発そのものが悪いものではない。ただ、震災のときのように大きな事故があると、原発は突然怖いものになることを僕たちは知ったはずなのに――明るさを計画停電のころのようにしておくつもりはどこの企業も組織も無かったようだ。せいぜいがLEDに変えたくらいかも。
電気はお金のように、使うと貯めていたものが減っていくものではない。だから意識のなかでは使いやすいものなんだろうと思う。
使えば支払いが増えるので、「支出の節約」という意味で使用量を減らそうとすることはあっても、そもそも使わないでおこうとする意識は起こりにくいのが電気というものなのかもしれない。
でも、多少暗くても、多少不便でもそもそも使わないようにしていかないと、供給しなければならないので電気を作り続けなければならない。
何かあったときに怖いものになる原発を無くしていきたいなら、電気を使う量をそもそも減らすための多少の不便さも僕らは受け入れなければならないんだと思う。
原発を無くしていくことがこの国の未来にどれほどよい影響を与えるのか、あるいは悪い影響を与えるのかわからない。
原発が無くなれば補助金を受けている自治体だって困るだろうし、原発があることで仕事を得ている人たちも困る。そうはわかっていても、ただ単にいまの想いは? と訊かれれば、「無くしたい」と僕は答える。
マイケル・サンデルではないけれど、原発の将来についていろんな場面でいろんな人たちが熟議することが大切なんだろうと僕は思う。原発を存続するにしても無くすにしても、議論を尽くしたと国民の多くが感じることが重要で、その議論の過程を経てこの国の未来が生まれてくるのだと思う。
単に「続けますか? 止めますか? どちらを採りますか」という話ではないだろう。
ツバメを見ていろんなことを考えてしまった。
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