QJ(QuickJapan)の69号。
その存在を知ったのは、ポップンポールさんのブログ "ひとくちメモ" のこの記事で。
「やりすぎコージー」の特集。
なんと言うことだ。
平成生まれの子供達が成人を迎える時期に、こんなものが世に現れていたとは。
何かの啓示としか思えない。
知らなかったことを悔やまれた。
だが……無い。無いのだ。
私の周辺にあるどの書店にも無い。どこにも無い。まるで無い。恐ろしいまでに無い。
それから探すこと幾年月。
自分が住んでいるあたりの未開度をこれほど感じたことは、私はかつてなかった。
たった一度。たった一度だけ、私は、その影を見た。
正月の帰省時、新大阪の駅構内にある書店で、私は店員に「クイックジャパンという雑誌はありますか」と尋ねたのだ。
そして、その若い店員はこう答えた。
「あぁ、アレ。有りますよ」
「有りますよ」
その言葉の意味を君は知っているか。
その言葉の響きを君は知っているか。
その言葉によってもたらされる歓喜の深さを君は知っているか。
それは天上の音色。
神界のネクタールのごとき甘美さ。
それは至高。
それは究極。
それは絶対。
どこかの料理のようだが気になさるな。
店員が進むままに着いていき、たどり着いた棚。
その前に座り込む店員。そして……嗚呼…そして。彼は私に言ったのだ。
「すみません…無いですねぇ。さっきまで有ったんですが」
サッキマデアッタンデスガ……
サッキマデ
S・A・K・K・I・M・A・D・E
さっきさっきさっきさっきさっきさっきさっきまでさっきまでさっきまで
さっきまで?
さっきまで!
さっきっていつだ? いつだよ? いつなんだよ!?
5秒前か。1分前か。
お前はいつも「さっき」って言ってるんじゃないのか。
有ったんなら取っとけよ。オレが買いに来るだろうが。
私は怒りと悔やみと、苦悩に溺れそうになった。
そんな私の耳に、いっしょにいた妻が発した言葉が届いた。
「やっぱり大阪だし。今田にーさんのファンっているのよ」
納得した。
了解した。
理解した。
明快に、明晰に、完璧に、完全に、深くどこまでも徹底的に。
そうだ。そうに違いない。
ならば。そうであるならば。それは、いいことじゃないか。
売れたのだ。売れているのだ。買われたのだ。買われているのだ。
一瞬、私の目の前を通り過ぎていった「やりすぎコージー」特集の影。
今は、そのことに感謝しよう。
愛する妻の一言が私を苦悩の淵から救ってくれたのだ。
そう思えばいいじゃないか。そんな想いで、私は妻と共にその場をあとにした。
そして、2007年の朝日が昇り、楽しかった帰省の日々も終えて、私たちは愛の住処へ戻ってきた。
お正月は、私の実家へ行ったので、今度は、妻の実家へ挨拶に行くことにした。
そのためのお土産を探しに出かけた先で、私は啓示という言葉の本当の意味を知ることになる。
私たちは、渋滞を嫌って電車で出かけていた。
ふと思い立って、駅のそばにある書店で今一度『クイックジャパン』を探してみようとした。
カウンターで店員に声をかけると、コンピュータで調べてくれた。
「お取り寄せになりますねぇ」
店員の返事が虚しく響いた。
後学のためにと思い、普段ならどの棚に置いてあるのか尋ねたところ、その書店では、「音楽・映画」という棚に置いてあるとのこと。
この時点では、私はもう書店で購入するのはあきらめていた。
次にQJを買いたいと思ったときは、その棚を見てみればいいかと考えていたぐらいだ。
別のフロアで買い物をしていた妻と合流し、書店を出た私たち。
切符を買ってから時間を見ると、次の電車まではまだ時間があった。
時間もあるし、どうせならと私は悪あがきのように考えて、近くにあるもう一つ別の書店も覗きたいと妻に話すと、妻は快く応じてくれた。
だが、その書店でも、店員さんがコンピュータで調べてくれたが、「ございませんねぇ」という返事。
「無いってさ。行こうか…」と話しながら、書店を出る私と妻。
そのとき、妻が、「電車までまだもう少し時間あるね。どうせだったらもうちょっと店内で時間をつぶしていきましょう」と切り出した。
それもそうだ。寒いホームで待たなければいけない理由は無い。
私と妻は、今出てきたばかりの書店に再び入った。
そのとき、なんとはなく、私は、自分でも棚を見てみようと思った。
コンピュータ検索で調べても、「無い」と言われたが、1つめの書店では、自分でいくつかの棚を見たあとで店員に声をかけたが、この書店では自分で棚を見て回ってはいない。
ひょっとして店員さんは、検索条件の指定時に何かの手違いをしたかもしれないではないか。
一応、ここでも自分で棚を見ておくべきだと考えて、私は、書店のなかを進んだ。
電車までそう多くの時間は残っていない。ピンポイントでの攻めが必要だ。
1つめの書店では、「音楽・映画」という棚にいつもは置いてあると聞いていたので、この書店でも同じようなカテゴリーの棚にねらいを定めることにした。
その棚のあたりに到着した私は、ざっと視線を走らせる。
時間は限られている。しかも、実は私は、QJの実物を見たことがなかったのだ。
わかっているのは、ポップンポールさんのブログで見た69号の表紙と、リンク先にあったタレントの「ほしのあき」さんを使った68号の表紙だけだ。
平台に載っているとは考えにくい。
私は、棚に並んで見える背表紙だけに絞って視線を走らせた。
3、4段の棚を端から端へと見ていく。
違う、違う、違う、違う違う違う、ほしのあき、違う…
うん?
ほしのあき?
少し視線を戻した私の前には、大きく「ほしのあき」と書かれた白い背表紙があった。
そっと摘んで引き出してみると、そこには紛れもなく "QJ" の文字が。
在った。QJが存在した。
私が探してる69号ではないが、少なくともこの書店には、QJは入庫していたのだ。
さっきの店員のコンピュータ検索は何だったんだという怒りは、私の中に浮かばなかった。
この書店には、QJは確かに存在しているのだ。それだけでよかった。
だとすれば、あるかもしれない。69号が。
まだ売れ残っているかもしれない。69号が。
わずかだが、確かな希望の明かりを頼りに、さらに視線を走らせる私。
迫る時間。
走る視線。
時間がさらに過ぎる。
視線の移動速度を上げる私。
走る走る視線。
冷酷な意図を感じるぐらいに減っていく時間。
時間時間時間時間
視線視線視線視線視線
時間時間時間時間
視線視線視線視線視線時間時間時間時間視線視線視線視線時間視線時間視線
やりすぎ…やりすぎ?…やりすぎ!?
在ったのだ。ついに、ついに在った。
私が視線を走らせていた棚の一番端。「ほしのあき」から離れること数十冊隣に、それは在った。
『クイックジャパン69号 やりすぎコージー特集』が在ったのだ。
私は震える手で棚からそれを引き抜くと、レジに向かって早足で進んだ。私の顔は悦びで溶けそうになっていたに違いない。
レジでは、コンピュータ検索をしてくれた店員さんの前にわざと進み出た。
"怒り"ではない。そのときの私には"怒り"の心などなかった。
「同じQJなら並べて置いておけよ」という思いも無かった。
その店員さんに私は伝えたかったのだ。
『クイックジャパン69号』は、君が務めるこの店内に確かに在ったのだということを。
そして、私はそれを見つけたのだという悦びを。
私は彼の顔をまっすぐ見つめ、笑顔で言った。
「在りました」
在りました……
その響きの美しかったことといったら、それはもう筆舌では語れない。
あの日、妻の実家へのお土産を別の場所で買っていたなら…
最初に立ち寄った書店で、私がもう完全に諦めていたなら…
あのとき、妻が「電車の時間までここにいましょう」と言ってくれなければ…
これが、啓示でなくて何だというのだ。
その日、家に帰り着いた私は、買ったばかりの69号を堪能した。
思う存分読み、感じ、楽しみ尽くした。
いま、私はこの世の全ての存在と事象に感謝の念を伝えたい。
この思いは、今後の私の人生に大きな良き影響を与えるだろう。
ありがとう。妻よ。
ありがとう。ポップンポールさん。
ありがとう。クイックジャパン。
ありがとう。やりすぎコージー。
(Amazonで注文すれば良かったのになんて言う奴がいたら、殴ってやる…)
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