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揚げパンの詩

揚げパンを愛する。

ほどよく揚げあがり、さくさくとした食感。全体にまぶされたグラニュー糖。中には餡こかと思えば、カスタードクリームであったりと、食を愛する者の目と心をもてなしてくれる。美しく楽しく美味しく、神酒(ネクタル)のごとき。

その存在に込められた過激なまでのストイックさ。

どんなに味付けしても、どんなパンであっても、「揚げ」なければ揚げパンたり得ないのだ。「かくあるべし」と自らを徹底的に明確に定義せしめんとするその存在の仕方。もう少し気楽にしたまえと声をかけ、肩を叩いてやれば、まだしも生きやすいだろうにとときに思う。

かと思いきや、カスタードクリームあるいは餡こと、全く異なる食物をそのときどきで内包し、さらには、本体表面にもグラニュー糖、ときに"きなこ"と、内と外を千差万別に入れ替えてみせる柔軟さ。

かのような異なる文化を縦横無尽に纏い、含んでみせながら、「揚げるべし」という存在の意味であり、目的であり、手段である最後の一線を、決して崩なぬ隙なき態度。

されど、その遙かな高みの手前。我らは、避けえぬ事物を超えねばならない。

そは"カレーパン"。
そは傍若無人な存在。そは無知蒙昧の輩を支配せんとする残虐非道の王。

そは、"揚げたパン"としての姿で我らを眩ませ、未だ精神の崇高な高みを知らぬ未熟な認識のなかに「揚げパン」として滑り込もうとする。知の目覚めを知らぬ民衆の精神の敵。

なぜだ。なぜだ。何故に"カレーパン"が「揚げパン」たり得るのか。

諸君! 忘れてはならない! 目を開け! 心を澄ませよ! そして問い続けることを忘れるなかれ! "カレーパン"とはいかなるものかと。

かの残虐の王を、"彼自身"たらしめているものは、かくゆう"カレー"に他ならないではないか!

"カレー"なくば、"彼"は存在し得ない。"知の目覚めを知らぬ者の敵"とはまさに言い得て妙ではないか!

"カレー"さへあれば、"彼"は存在し得るのだ。そを内包しようが、身に纏おうが、"彼"は"彼"なのだ。知れ! 「揚げる」必要すらない。

あぁ、油断するな。若き精神よ。
"彼"は「揚げず」に認知の中に存在し得る。心と目をとぎすませ。認知の壁を突き破れ。「揚げず」にいて、"彼"の名の論理は破綻しないのだ。

故に、"彼"は「揚げパン」にあらず。

「揚げパン」とは、「揚げる」ことで我らの認知のなかに姿を現す。「揚げパン」は「揚げ」によって、いかなるraison d'etreをも乗り越え、己の存在のなかに飲み込み、認知の大地に雄々しく立ち続けるのだ。

「揚げず」にいれば、「揚げパン」の名の論理は破綻する。

故に、そは「揚げパン」。

若者よ。未だ知の深みを知らぬ若き小鳥よ。考えよ。見つめよ。そして、尋ねよ。自らの認知の大地に、欺瞞や粉飾、暴力や破壊の種をまいてはならない。

あぁ、いま若人の耳に、心の蔵に、たくましき喇叭の音が響かんとしている。彼らの手には鍬と鎌が握られ、彼らは行く手の大地を耕す。君たちは創造し、君たちは突き進む。君たちは愛し合い、慈しみ合う。

ゆけばわかるさ。迷わずゆけよ。「揚げパン」は君と共にある。

"カレーパン"を、「揚げパン」と呼ばないで!

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