情報の必要性
サッカーのワールドカップ予選アジア5位決定戦(ウズベキスタン対バーレーン)が、主審のミスで再試合になったそうですね。
主審が誤った判断をしたというならそうなるのも仕方ないことでしょう。
それにしても気になるのはスポーツ紙などの記事での「日本人主審」という書き方。人種を明記しなければならない理由が何かあるのかしら? 「主審のミス」でいいじゃないか。
ニュースのなかで、人種や性別が本当に必要なのかなと疑問を感じることがあります。
たとえば、2001年1月に起こった日本航空の旅客機同士のニアミス事故では、訓練中の管制官と監督の管制官が、便名を間違えて誘導したことが原因でしたが、そのニュースを最初にテレビで見たときには、「監督していた○性管制官」というようにその監督していた側の管制官の性別が述べられていました。そのときも、性別を伝えることに何の意味があるんだといぶかしく思ってました。
(その後に続く報道の中からは、その管制官の性別が消えてました。視聴者からの苦情でもあったかな。)
以前みた深夜のテレビショッピングでは、司会進行役として現れた人はKimiko Tanakaという方でした。名前だけ見ていたら人種は日本人のようですが、彼女の人種はそうではありませんでした。
このように、世界的にみれば、個人の氏名でもその人のアイデンティティを表すにはもろいといえます。そんな時代に、情報としての重要性が高いように思えない人種を付けて報道するセンスを疑ってしまいます。
スポーツ紙っていうのはその程度だっていう見方もできると思うけど。それもねぇ、なんだか差別的だしなぁ。報道する側がしっかりして、情報の必要性を吟味して欲しいなぁ。
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