年齢によって価値観を見直す
「健康寿命」という言葉をパートの方から聞きました。「平均寿命」がいくつだと言っても、それは「命」があるというだけで、自分では動くことも考えることもできない状態の人も入った算出です。
結局、重要なのは自分で動いて自分で考えて自分で何もかもできるという状態がいくつまで続くかということ。それが「健康寿命」。
健康寿命が尽きると、あとは命があるというだけで、毎日ただ寝込んでいるだけとかになるわけです。
そう考えると、自分の健康寿命がいくつまであるのか将来に不安がわいてきます。
健康に気をつかうことは大切なことですが、気をつかっていたからといって健康寿命が延びるかというと、これは明確な相関関係は言えないと思います。
どんなに気をつけていても、ある日大きな病になるかもしれません。
あるいは、年をとってきたら何か趣味をみつけて生きがいにしましょうとかいうこともよく聞きますが、それは僕に言わせれば可能性の話でしかありません。
そうやって生きがいを見つけて健康に生きている人も確かにいる反面、新しい趣味を見つけて始めたが故に人間関係に悩んで苦しんでいやになるということだってありえます。
何か趣味を始めることが、即生きがいを生んで楽しく暮らせることになるとは単純に言えないと思います。
また、いつまでも元気で旅行をしたりして行動的に過ごしていた人が、突然動けなくなってしょんぼりしてしまうということがあります。
でも、もともと行動的であることに価値をおいてなかった人で、足が十分に動けなくなっても、テレビが見られるから毎日退屈しなくて楽しいという人もいます。
年を取ってくると、遅かれ早かれいつかは動きづらく、あるいは動けなくなります。
そう考えると、行動的であるということにいつまでも価値をおかずに、行動的でなく楽しむことに価値観をシフトさせていくのも、年をとっていく過程であまり不幸せを感じなくてすむ1つの知恵となり得るかもしれません。
さらに、子供達がいて、お孫さんがいて笑顔が絶えないといった幸せな家族のイメージも1つの可能性に過ぎません。そうした幸せを感じるには、そもそも家族仲が良くなければなりませんから。
家族がいるということと、幸せであると感じられることはイコールではないと言えるかと思います。
こんな風に考えていくと、自分にとって幸せとは何だろうかという哲学的な想いがわいてきます。
たぶん、幸せなことや状態がどこかに存在するのではなく、何を幸せとして認知するかを自分で選択することが重要になるのじゃないかと漠然と思っています。
1人でいることが幸せだと認知する人は、1人でいられないと不幸を感じます。逆に、1人でいることが不幸せだと感じる人は、誰かがそばにいることを幸せだと感じます。
起こっていることは同じでも人によって認知の仕方が変わりますから、感じ方も人それぞれです。
ある程度の年をとってきたら、何を大切に感じているかという自分の価値観を見直して、そのままでよいかどうかを点検してみる行為が必要な気がしています。
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