結婚をする前に
録画してあったNHK教育「ETV特集 わたしたちが結婚しない理由~シングル20人の本音」(2004年11月13日放送)を見て、いろいろと考えてしまいました。
結婚をしていない男性や女性には、「結婚はしたくないということはないけど、適当な相手にめぐり会えない」と言う人がいます。
この「適当な相手」というのが、いろんな意味を含んだずいぶんと複雑な言葉です。
一言でまとめてしまうと、「自分が失いたくないもの、背負いたくないもの、得たいもののどれか、あるいは全てを満たすことができる相手」というのがその意味ではないかなと感じています。
その意味だと仮定して、それによって相手を選定しているなら、それはどうなんでしょう?
未婚の自分が偉そうなことを言うようですが、一番大事なのは、愛し合えるかどうかだと思うのですが。
『人柄もよくて同じように尊敬できる人が複数いたら、その中からある程度の地位や収入がある人を選ぶのは当たり前』と言う人がいます。
それは、誰もが考えるでしょうし、女性に限らず、男性だって女性にそういう条件を求める人はいるでしょう。
けれど、それはあくまで仮の話であって、本当にそんな出会いが起きるかどうはか誰にもわかりません。それに、現実にそんな出会いがあったとしても、相手もこちらを選んでくれるとは限りません。
最終的には、どちらからも受け入れてもらえなかったという場合だってあるでしょうし。
つまり、『人柄もよくて同じように尊敬できる人が複数いたら、その中からある程度の地位や収入がある人を選ぶ』という想定を行うことには、自分がより良い人生を送るためには何の意味もないといえるかと思います。それを考えたからといって、何が起きるわけでもないですから。
それよりも何よりも、死ぬまでその人といっしょにいて愛し合えるかを、やっぱりまず感じ取っておかないといけないような気がします。
人がうらやむほど収入や地位があっても、それが無くならない保証は今時どこにもありません。
無くなってもその人といたいのか、その人を支えていけるのか、あるいは地位や収入を無くした自分をあの人は支えてくれるのか、そうやって考えておくことが大事なことだと思います。
愛し合うということは、簡単に言ってしまえば許し合うことだと僕は思っています。
他人がいっしょに生きていこうとするのですから、いろいろな場面でうまくかみ合わないことが起きると思います。そんなときに大事なのは、相手を受容し、認め合い、許し合う心でしょう。
また、絶対に外してはいけない部分をこの人は守れるのかという判断も大事だと思います。
僕はキリスト教徒ではありませんが、キリスト教式での結婚式で使われる誓いの言葉がとても好きです。
「神の定めに従って、いのちの限り、かたく節操を守ることを誓いますか。」という問いに、新郎・新婦は「誓います」と応えます。
この瞬間、2人は節操を守ることを約束したわけですから、これは絶対に外してはいけません。約束ですから。
そして、「順境においても逆境においても、病気の時も健康なときも、豊かなときも貧しいときも、生涯愛と誠実を尽くすことを誓います。」という約束もします。
これまた約束ですから、絶対に外してはいけません。
キリスト教徒ではないとか、キリスト教式で結婚式をしていないとかは関係ないです。
普通に考えても、結婚したら互いに節操を守り、どんなときも互いに愛と誠実に満ちたな関係でいるのは当たり前のことでしょう。
逆から言うと、こうした誓いを心から言えない人、言いたい気持ちにならない人とは結婚を決めるべきではないと思います。
浮気をしたり、2人の関係よりも自分が望むことの方を強く求める人がいたら、生涯を共にする人としてさっと決めてしまわないで、ちょっと時間をおいてそれでもその人でいいのかどうかを考える。また、互いの将来について話し合うのは、男性でも女性でも決して損にはならないと僕は思うのですが、いかがなものでしょう?
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